01-006 天者陰陽寒暑時制也順逆兵勝也

原文比較

独見
独見

天者、陰陽、寒暑、時制也、順逆兵勝也
天とは、陰陽、寒暑、時制なり、順逆すれば兵勝なり
天とは、陰陽、寒暑、時を制することであり、順逆できれば戦は勝てる。
天とは、陰陽の調和、寒暑の循環、時節の移り変わりのことである。この自然の理法に基づいて生じる有利不利の状況の変化に適切に対応することこそが、戦争に勝利をもたらす

竹簡
竹簡

天者陰陽寒暑時制也順逆兵勝也

天とは陰陽寒暑時制なり、順逆兵勝なり
天とは、陰陽、寒暑、時を制することである。これに順逆することが、兵の勝敗を決する。

古文孫子
古文孫子

天者陰陽寒暑時制也
天とは陰陽寒暑時制なり

魏武注孫子
魏武注孫子
天者陰陽寒暑時制也
天とは陰陽寒暑時制なり
孫子略解 - 中國哲學書電子化計劃
宋本十一家注
宋本十一家注
天者陰陽寒暑時制也
天とは陰陽寒暑時制なり
天とは、陰陽、寒暑、時を制することである。
十一家注孫子 - 中國哲學書電子化計劃
考察中
考察中
不明瞭

天とは、自然の理法のことであります。

陰陽とは、万物の根源たる陰と陽のことです。寒暑とは、四季の寒暖の変化のことであり、時制とは、昼夜・干支・月の運行のことであります。

天の理法に順うことが兵を勝たせ、逆らうことが兵を敗れしめます。故に、天を慎重に観察し、その時々の変化に合わせて兵を運用すべきなのです。

例えば、暑き夏日には兵を休め、寒き冬日には兵を温め、新月の夜は動き、満月の夜は静めるが賢明なり。

また、陰に当たれば守り、陽に当たれば攻め、寒ければ身を凍えさせず、暑ければ身を暑くさせずに、常に天の理に順うべきであります。

天の理法に背けば、必ず天譴を被ります。しかし天の理に従えば、必ず天佑を受けられます。是が故に、善く戦う者は天を重んじ、天の理に基づいて兵を運用するのであります。

註釈

魏武注孫子
魏武注孫子

天者,陰陽、寒暑、時制也

  • 曹操曰:順天行誅,因陰陽四時之制。
    曹操が説く:天の理に従って軍事行動を行なう。陰陽と四季の移り変わりの流れに基づいて軍事行動を決める。
    故《司馬法》曰:『冬夏不興師,所以兼愛吾民也。』
    それゆえ《司馬法》では「冬と夏には軍を出兵さない、それは(領)民を大切にするためである」と説いている。
考察中
考察中
宋本十一家注
宋本十一家注

天者,隂陽、寒暑、時制也

  • 李筌曰:應天順人,因時制敵。
    李筌が説く:天に応じ人に順う、時に因って敵を制す。
  • 杜牧曰:隂陽者,五行、刑德、向背之類是也。今五緯行止,最可據驗。巫咸、甘氏、石氏、唐蒙、史墨、梓慎、稗竈之徒,皆有著述,咸稱祕奧,察其指歸,皆本人事。《準星經》曰:「歲星所在之分,不可攻;攻之反受其殃也。」《左傳》昭三十二年:「夏,吳伐越,始用師於越,史墨曰:『不及四十年,越其有吳乎?越得歲而吳伐之,必受其凶。』」註曰:「存亡之數,不過三紀。歲星三周三十六歲,故曰『不及四十年』也。」此年歲在星紀。星紀,其分也;歲星所在,其國有福,吳先用兵,故反受其殃。哀二十二年,越滅吳,至此三十八歲也。李淳風曰:「天下誅秦,歲星聚於東井。秦政暴虐,失歲星仁和之理,違歲星恭肅之道,拒諫信讒,是故胡亥終於滅亡。」復曰:「歲星清明潤澤,所在之國分大吉。君令合於時,則歲星光熹,年豐人安;君尚𭧂虐,令人不便,則歲星色芒角而怒,則兵起。」由此言之,歲星所在,或有福德,或有災祥,豈不皆本於人事乎?夫吳越之君,德均勢敵。闔閭興師,志於吞滅,非為拯民,故歲星福越而禍吳。秦之殘酷,天下誅之,上合天意,故歲星禍秦而祚漢。熒惑,罰星也;宋景公出一善言,熒惑退移三舎,而延二十七年。以此推之,歲為善星,不福無道;火為罰星,不罰有德。舉此二者,其他可知。況所臨之分,隨其政化之善惡,各變其本色,芒角大小,隨為禍福,各隨時而占之。淳風曰:「夫形器著於下,精象繫於上。」近取之身,耳目為肝腎之用,鼻口實心腹所資,彼此影響,豈不然歟?《易》曰:「在天成象,在地成形,變化見矣。」蓋本於人事而已矣。刑德向背之說,尤不足信。夫刑德天官之陳,背水陳者為絕紀,向山坂陳者為廢軍。武王伐紂,背濟水向山坂而陳,以二萬二千五百人,擊紂之億萬而滅之。今可目睹者,國家自元和已至今,三十年間,凡四伐趙宼昭義軍,加以數道之衆,常號十萬,圍之臨城縣。攻其南,不拔;攻其北,不拔;攻其東,不拔;攻其西,不拔。其四度圍之,通有十歲。十歲之內,東西南北,豈有刑德向背、王相吉辰哉?其不拔者,豈不曰:「城堅、池深、糧多、人一哉!」,復以往事驗之,秦累世戰勝,竟滅六國,豈天道二百年間常在乾方,福德常居鶉首?豈不曰穆公已還,卑身趨士,務耕戰,明法令而致之乎?故梁惠王問尉繚子曰:「黃帝有刑德,可以百戰百勝,其有之乎?」尉繚子曰:「不然。黃帝所謂刑德者,刑以伐之,德以守之,非世之所謂刑德也。」「夫舉賢用能者,不時日而利;明法審令者,不卜筮而吉;貴功養勞者,不禱祠而福。」周武王伐紂,師次於汜水共頭山,風雨疾雷,鼓旗毀折,王之驂乘惶懼欲死。太公曰:「夫用兵者,順天道未必吉,逆之未必凶。若失人事,則三軍敗亡。且天道鬼神,視之不見,聽之不聞,故智者不法,愚者拘之。若乃好賢而任能,舉事而得時,此則不看時日而事利,不假卜筮而事吉,不待禱祠而福從。」遂命驅之前進。周公曰:「今時逆太歲,龜灼言凶,卜筮不吉,星凶為災,請還師。」太公怒曰:「今紂剖比干,囚箕子,以飛廉為政,伐之有何不可?桔草朽骨,安可知乎!」乃焚龜折蓍,率衆先涉,武王從之,遂滅紂。宋高祖圍慕容超於廣固,將攻城,諸將咸諫曰:「今往亡之日,兵家所忌。」高祖曰:「我往彼亡,吉孰大焉!」乃命悉登,遂克廣固。後魏太祖武帝討後燕慕容麟,甲子晦日進軍,太史令晁崇奏曰:「昔紂以甲子日亡。」帝曰:「周武豈不以甲子日勝乎?」崇無以對。遂戰,破之。後魏太武帝征夏赫連昌於統萬城,師次城下,昌鼓噪而前。會有風雨從賊後來,太史進曰:「天不助人,將士飢渴,願且避之。」崔浩曰:「千里制勝一日,豈得變易,風道在人,豈有常也!」帝從之。昌軍大敗。或曰:「如此者,隂陽向背,定不足信,孫子敘之,何也?」答曰:「夫暴君昏主,或為一寶一馬,則必殘人逞志,非以天道鬼神,誰能制止?」故孫子敘之,蓋有深旨。寒暑時氣,節制其行止也。周瑜為孫權數曹公四敗,一曰:「今盛寒,馬無稾草,驅中國士衆,逺涉江湖,不習水土,必生疾病,此用兵之忌也。」寒暑同歸於天時,故聯以敘之也。
    註釈訳文
  • 孟氏曰:兵者,法天運也。隂陽者,剛柔盈縮也。
    孟氏が説く:戦争とは、天の運行に法(のっと)るものである。陰陽とは、剛柔・盈縮(えいしゅく)のことである。
    用隂,則沉虛固靜;用陽,則輕捷猛厲。後則用隂,先則用陽。
    陰を用いれば沈潜し虚しく固く静かであり、陽を用いれば軽捷で猛烈である。後れる時(防御的な立場の時)は陰を用い、先んずる時(攻勢に出る時)は陽を用いる。
    隂無蔽也,陽無察也。隂陽之象無定形,故兵法天。
    陰には蔽い(覆い隠すこと)がない、陽には察する(窺い知る)ことがない。陰陽の象には定まった形がない。それゆえに戦争の法則は天(自然の理)から来るのである。
    天有寒暑,兵有生殺;天則應殺而制物,兵則應機而制形。故曰「天」也。
    天に寒暑があり、戦争に生殺がある。天は殺すことに応じて万物を制し、戦争は機に応じて形を制する。故に「天」と言うのである。
  • 賈林曰:讀「時制」為「時氣」,謂從其善時,占其氣候之利也。
    賈林が説く:「時制」を「時気」と読む。いわゆるその良い時に従い、その気候の利を占めるということである。
  • 杜佑曰:謂順天行誅,因隂陽四時剛柔之制。
    杜佑が説く:いわゆる天の理に従って誅(軍事行動)を行なう、陰陽と四季の剛柔の法則による。
  • 梅堯臣曰:兵必參天道,順氣候,以時制之,所謂制也。
    梅堯臣が説く:軍事行動は必ず天の道(自然の理)にひきくらべ(参照)なくてはならず、気候に順い、時においてこれを制すべきである。これがいわゆる制である。
    《司馬法》曰:「冬夏不興師,所以兼愛民也。」
    《司馬法》は「冬夏は軍を興さず、これは民を兼ね愛するためである」と説く。
    司馬法 : 仁本 - 中國哲學書電子化計劃
    仁本電子全文,全文檢索、相關於仁本的討論及參考資料。有簡體字版、繁體字版、英文版本。
  • 王晳曰:謂隂陽,總天道、五行、四時、風雲、氣象也,善消息之,以助軍勝。
    王晳が説く:陰陽というのは、天の道、五行、四時、風雲、気象を総称したものである。これらの状況が道理にかなっていれば、軍の勝利を助けることができる。
    然非異人特授其訣,則未由也。若黃石授書張良,乃《太公兵法》是也。
    しかし、異人(特別な人物)が直接その極意を教えてくれなければ、(兵法の極意を)会得する方法はない。むかし黄石が張良に書を授けた「太公兵法」がそうである。
    意者豈天機神密,非常人所得知那?其諸十數家紛紜,抑未足以取審矣。
    意とは、あるいは天機の神秘に通じ、常人の知り得るところではないだろう。その諸々の十数家の説は混乱した状況で、そもそも情報が不十分だから的確に判断することはできない。
    寒暑,若吳起云:「疾風、大寒、盛夏、炎熱」之類。時制,因時利害而制宜也。
    寒暑とは、むかし吳起が語った「疾風、大寒、盛夏、炎熱」の類いのことである。時制は、時機の有利不利に基づいて時宜に適した対応をすることが肝心なのである
    范蠡曰:「天時不作,弗為人客」是也。
    范蠡が「天時に作らざれば(天からの時機が生じない時は)、人の客と為るべからず(人為的な・無理なことをしてはならない)」と説くのがそれである。
  • 張預曰:夫隂陽者,非孤虛向背之謂也。蓋兵自有隂陽耳。
    張預が説く:そもそも陰陽とは、孤虚向背(単なる正反対の関係にある)のことを言うのではない。なぜなら軍事行動自体が本来的に陰陽を有しているからだ。
    范蠡曰:「後則用隂,先則用陽;盡敵陽節,盈吾隂節而奪之。」又云:「設右為牝,益左為牡,早晏以順天道。」
    范蠡は「後れる時(防御的な立場の時)は陰を用い、先んずる時(攻勢に出る時)は陽を用いる。敵の陽の節を尽くし(敵敵が全力を挙げて攻勢に出るて陽の気運が極まるのを待ち)、吾が陰の節を盈らせて(自陣は堅固な守りを固め陰の気運を高めるて反撃の機会を伺い敵の陽の気運が衰えた好機を捉えて)之を奪う(反撃して敵を撃破する)」と説く。又「右を牝(雌)と設け(右陣を守りの陰)、左を牡(雄)と益し(左陣を攻めの陽と割り振り)、時機の早晩(攻守の時期判断)は天道に順う(状況次第でそれらを使い分ける)」と語る。
    李衛公解曰:「左右者,人之隂陽;早晏者,天之隂陽;竒正者,天人相變之隂陽。」此皆言兵自有隂陽、剛柔之用,非天官日時之隂陽也。
    李衛公が説く「左右とは、人の陰陽なり。早晏とは、天の陰陽なり。竒(たく)正とは、天人が相変わる陰陽なり。」これらはみな、軍事行動自体が陰陽を有し、剛柔を用いることを言うのであって、天官(天体)や日時の陰陽を言うのではない。
    今觀尉繚子《天官》之篇,則義最明矣。《太白隂經》亦有《天無隂陽》之篇,皆著為卷首,欲以決世人之惑也。
    今、尉繚子の《天官》の篇を観れば、その義は最も明らかである。《太白陰経》にも《天無陰陽》の篇があり、どれも巻の首に著されている。これによって世間一般の人々の疑惑を解決するためである。
    太公曰:「聖人欲止後世之亂,故作為譎書,以寄勝於天道,無益於兵也。」是亦然矣。
    太公(太公望)は「聖人は後世の乱れを止めんと欲し、故意に虚偽の要素を含む書物を著し、天の道(自然の理)に寄り添うことで勝つことができる、軍事行動においては無益だ。」と説くが、これまた然りなり。
    唐太宗亦曰:「凶器無甚於兵。行兵苟便於人事,豈以避忌為疑也。」寒暑者,謂冬夏興師也。漢征匈奴,士多墮指。馬援征蠻,卒多疫死。皆冬夏興師故也。時制者,謂順天時而制征討也。
    唐の太宗もまた「凶器に兵に勝るものなし。兵を行うこと苟くも人事に便ならば、豈に忌を避けることを疑うべけんや。」と説く。「寒暑」とは、冬夏に軍を興すこと。漢による匈奴征討の際、兵士の多くが指を墮とした。馬援による蛮征の際、兵卒の多くが疫病により亡くなった。これらは皆、冬や夏に軍を興したからである。時制とは、天時に順って征討を制することを言っている。
    《太白隂經》言,天時者,乃水旱、蝗雹、荒亂之天時,非孤虛向背之天時也。
    《太白陰経》に言う所の天時とは、水旱(すいかん:洪水や干ばつなどの水害)、蝗雹(いなごの大群による農作物の被害と雹による農作物の打撃)、荒乱(自然災害)の天時であり、孤虚向背の天時(単なる陰陽の理論的な対概念)ではない(実際に起こりうる天災や異常事態そのものである)。

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